情妾【壱】
昭和42年の夏のある日、富夫は自分の所有するアパートへ向かっている。今日は月末、家賃の徴収のためだった。二世帯の集金を終えて次のドアの前に立ちノックをして世帯主の名前を呼ぶ。
富夫「幸江さん、大家の塚本じゃ、おるかのぉ?」
中から声がして暫くしてドアが開く。幸江が汗ばんだ前髪を整えながら取り繕った笑顔を見せる。
富夫「月末じゃから家賃を貰いに来たんじゃ」
幸江「…大屋さん、ごめんなさい、」
「あと一週間、待ってもらえないですか?」
富夫「幸江さん、先月分もまだ半分しか貰うてないじゃろ」
「大丈夫かぁ?」
幸江「はい、内職のお金が入るので大丈夫です」
幸江は夫を三年前病気で亡くし、今は裁縫の内職をしながら高校生の一人息子、啓太とこのアパートで暮らしている。
富夫は困った顔を見せるが、何か思いついたのか暫くして微笑みながら幸江の顔を見た。
富夫「幸江さん、ちょっと相談があるんじゃが、」
「ここはなんじゃから上がらせて貰うてええかのぅ?」
幸江「…あ、でも内職の途中で散らかってますから…」
富夫「ええんじゃ、ええんじゃ、かまわんから」
富夫は許可を待たず厚かましく、幸江の傍を通り勝手知ったる居間の方へずかずかと入って行った。そして食卓の椅子に無断で座った。幸江が冷蔵庫から冷えた麦茶を差し出す。
富夫は喉に流し込むと一息して言った。相談というのは、富夫の持っている空き家の掃除を定期的にしてほしいとの提案だった。買い物か何か用事で出掛けた時でいい、掃除をする時間もその時の都合でいい、もし請け負ってくれたら家賃は待つし手当ても出す。との事だった。ただ… そこの空き家は、富夫の元妾の住んでいた家だったらしい。
富夫「放ったらかしにしとったら埃まみれになるしな」
「たまにゃ、窓も開けて風通しをよくしてやらんと」
「ワシも歳じゃし腰も悪ぃしなぁ」
「幸江さん。どうかのぉ?」
幸江は妾が住んでいた家ということもあり気が引けたが、家賃滞納の負い目もあるし、少しでも家計の足しになればと、渋々だが引き受けることにした。
そしてある日息子が学校へ行った後、買い物の帰りにその空き家へ寄ってみることにした。鍵は富夫から預かっていた。
その家は町から少し離れた所にあり、林に囲まれてひっそりと佇む小さな平家の一軒家だった。とり囲む塀は高く手入れされた植木が繁り、そのせいで家全体が暗く陰気な印象を与えていた。玄関の引き戸を開けて入ってみると昼間なのに中も薄暗かった。部屋の中も湿気があり少しカビ臭く感じたので外の空気を入れるために窓を開けた。台所と居間、お風呂とトイレ、そして部屋が三つ。埃は少し掛かっていたが、思ったより片付いて整理されていた。殺風景という表現のほうが合ってるかもしれない。
そして最後に入った部屋。そこには窓はなく、より殺風景な趣きの部屋だった。床は板張り、天井には頑丈な格子の梁がある。そして壁には大きな鏡と二つの箪笥。何か舞台のような重々しい…そんな存在感があった。
箪笥の棚が気になったので、その小さな引き戸を開けてみる。ほとんど空だったが、いくつ目かの棚の奥に何かあった。取り出してみると、縄だった。よく見ると赤い染みのようなもの… 爪で擦ってみたら、ぽつりと欠片が落ちた、蝋?。そういえばと周りに目配りすると、床の板の隙間にも赤いものか挟まっていた。それも赤い蝋だった。どうして縄と床に蝋が?… もう一度天井の格子に目をやると、木角には縄で擦れたような跡が無数に付いていた。そして柱にも… 。
その日は小一時間、簡単に掃き掃除をして帰った。それから三日後、二度目は時間を作り拭き掃除をするつもりで行った。そして… また、あの奥の部屋へ。気になっていた床の赤い蝋を取り除こうとした時、箪笥の棚の引き戸が少し開いていたのに気付いた。この前閉め忘れたのかと思い近寄ってみると、縄とは別の物が入っていた。冊子?、手に取って見るとアルバムみたいだった。表紙の隅に「加代」と書いてある。
アルバムを開いてみる。目に飛び込んできた、あまりの衝撃に息を呑む。今まで見たことがない、まして想像したこともない、異様で奇妖な… そして淫らで艶やかな情景…。好奇に誘われて項をめくってみる。
その時、襖の陰に人の気配を感じた。
「幸江さん、来とったんか?」
つづく …
大家 塚本富夫(61才)
富夫の妻 塚本久枝(57才)
母親 吉川幸江(46才)
息子 吉川啓太(18才)
元妾 加代